2011年3月11日、組合の生産施設は東日本大震災の強烈な揺れに耐えた。「すぐ再開できる」。組合の幹部は胸をなで下ろした。その頃、約60キロ北の東京電力福島第1原発で何が起きているのか。幹部らは知るよしもなかった。
原発事故後、風評被害が襲い掛かる。
福島県や近県で屋外栽培された原木シイタケから基準値超の放射性物質が検出され、出荷停止となった。工場内で栽培された組合のシイタケは事故の影響を受けなかったにもかかわらず、キャンセルが相次ぎ、取引先の大半を失った。
松本正美専務(60)は諦めなかった。
「原木シイタケの出荷停止で、新規の生産者が売り込む余地は広がっている。安全安心を証明すれば必ず買ってもらえる」
従業員の士気は高かった。「仕入れ担当者に工場を隅々まで見てもらおう」「品質は絶対に負けない」「失った以上の顧客を獲得できる」。販路回復へ、組合の方針と目標が定まった。
<首都圏向け9割>
巨大消費地の関東に隣接する「地の利」が生きた。シイタケの安全性に不安を抱く関東の流通業者の視察を全て受け入れ、菌床からパック詰めする段階までじっくり見学してもらった。放射性物質の検査も示し、安全性を印象付けた。
松本専務らは次第に手応えをつかんでいく。11年中に、北関東でスーパー約200店を展開する業者と新規取引が決まった。
ブランド力に磨きを掛けるため、12年には先進地の岩手県岩泉町と北海道白老町の生産者と連携。管理体制や商品包装を共通化し、他産地に引けを取らない価格交渉にこぎ着けた。
取引実績を積み上げ、それを武器に大手の青果流通業者やコンビニに攻勢を掛ける。商品管理を徹底し、形や大きさなど規格に厳しい大手の要請に応えた。
打つ手は当たり、全生産量の9割が首都圏向けとなった。16年3月には約14億円を投資した新工場が完成。年間生産量は当初の5倍の1000トンに上る。地元高校生の採用を続け雇用の創出にも貢献。8人で始まった施設では今、約80人が働く。
「悲観さえしなければ、ピンチは新たなステージへの転換点になる。さらに事業を拡大し、地域にも貢献したい」
原発事故から7年近く。松本専務はなお意欲的だ。