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日本のきのこを変えた「瓶で育てる」技術革新


[Release date]2018-01-03[source]goo[author]漆原 次郎
[Core hints] 鍋ものの具材を買うときの楽しい悩みといえば「きのこ」を何にするか。飾り切りで見た目も映えるシイタケにするか。しゃきしゃ
 鍋ものの具材を買うときの“楽しい悩み”といえば「きのこ」を何にするか。飾り切りで見た目も映えるシイタケにするか。しゃきしゃきとした歯ざわりのエノキタケにするか。だしがよく出るヒラタケを味わうか。ブナシメジ、マイタケ、エリンギもある・・・。
 
 種類豊富なきのこを食べる機会に私たちは恵まれている。これほど身近にきのこを食べられるようになったのにも、栽培法が確立したなどの経緯があるはずだ。そこにはどんな技術革新があったのか。
 
 今回は「きのこ」をテーマに、昔と今を前後篇で追ってみたい。前篇では、日本における各種きのこの栽培法確立の経緯を中心に見ていく。後篇では、国内のきのこ生産量首位を走る“きのこ総合企業”の研究者に、現在の研究開発とその成果について聞く。
 
「菌」とは「きのこ」のことだった
 日本の食用きのこの多くは自生、つまりその地域にもとから繁殖していたものだ。人とのつながりの長さをうかがわせる出土品もある。秋田県鷹巣町の伊勢堂岱遺跡(いせどうたいいせき)からは、縄文時代後期のきのこ形土製品が出土した。また、岡山市の百間川兼基遺跡(ひゃっけんがわかねもといせき)からは、マツタケの形をした弥生時代の土偶が出土した。
 
「菌」という言葉は、今では「細菌」や「病原菌」を想起させるが、もとは「きのこ」を指していた。人と菌のつきあいは、きのこから始まったのだ。
 
 自生するきのこ、あるいは切った木に生えているきのこを採るのみだった長らくの時代、嗜好性も伴い、きのこは「ハレの日」の食材として扱われてきた。その後、「生えているので採って食べる」から「生やして採って食べる」へ。日本人はきのこの栽培技術を築いてきた。そこには技術革新と、それを実現した人物の存在がある。
 
「独占すべきでなく」瓶栽培法を開発――シイタケ
 シイタケは江戸時代、庶民の間で熱を帯びていた“初物買い”の対象だった。1686(貞享3)年には、過激な販売競争を制限するため、幕府がシイタケの初物買いを禁止する令を出したほどだ。
 シイタケの人工栽培の歴史は古く、17世紀後半には始まっていたとされる。一説では、豊後国(現在の大分県)の源兵衛という農民が、出稼ぎ先で扱っていた炭材にシイタケが生えているのを見つけたのが端緒という。源兵衛は、きのこを生やす原木「榾木」(ほたぎ)に刃を入れてきのこを栽培する方法を編み出したという。ただし、起源地は伊豆という説もあり、定まっていない。
 
 1796(寛政8)年には、水戸藩の本草学者だった佐藤成裕(さとう・せいゆう)が、シイタケの栽培法を説いた『温故斎五瑞篇』を出版した。ソネ(シデ)、ナラ、クヌギといった榾木の選び方を詳述している。
 
 時代は下り、昭和初期になると、シイタケの人工栽培に大きな技術革新が起きる。“きのこ栽培の父”とも称され、欧米でマッシュルーム栽培の知識を得て帰国した森本彦三郎が、瓶に鋸屑(のこぎりくず)を入れて、そこでシイタケを栽培する「瓶栽培法」を開発したのだ。1927(昭和2)年6月の大阪朝日新聞で、森本は「国家的に観て相当有利な事業だから独占すべきでなく一般に推奨したい」と取材に応じている。
 
 瓶栽培法は、榾木を使わない。榾木を使った従来の栽培法は「原木栽培」と呼ばれるのに対し、森本が開発したこの方法は「菌床」とよばれる人工の培地できのこを育てるため「菌床栽培」と呼ばれるようになった。原木栽培と菌床栽培は、今もきのこの人工栽培の主流法だ。
 
一大産地に導いた信州の有志たち――エノキタケ
 エノキタケは、ナメタケ、ナメススキなどの別称を持つ。1697(元禄10)年、人見必大(ひとみ・ひつだい)が著した本草書『本朝食鑑』には「榎茸」の項目があり、こう記されている。
「この茸、榎の樹および老根、枯株に生ず。当世、嗜好の家は老榎の大樹を伐りて五六尺の大と作して土窖(つちぐら)の中に置く。これを覆うに湿稲、草薦(こも)を用いて、米泔冷汁を日に灑ぐこと一二次、二三日に至りて罷む。日を経て多く茸を生ず。採ってこれを食えば味、鮮美なり」
 
 穴ぐらのなかで、木のエノキを稲や筵(むしろ)で覆い、米のとぎ汁を1〜2度与えると、後日エノキタケが生えてくるという。味を「鮮美」としているところに、このきのこへの評価が感じられる。江戸時代中期には、枯木を用いたエノキタケの原木栽培法が具体的に記されていたのだ。
 
 近代的な栽培法が確立されたのは、昭和時代に入ってから。前述の森本彦三郎がシイタケ同様、原木の代わりとして鋸屑を用いて、季節にかかわらずエノキタケを栽培する方法を1928(昭和3)年に開発した。森本は同年『主婦の友』に「簡単で有利ななめ茸の人工栽培」という記事を寄せ、エノキタケの瓶栽培法を詳述している。
 
 森本の栽培法を広めたいという思いを受けたのが、信州の人たちだ。その一人が、千曲市の長野県屋代中学校(旧制)の教員だった長谷川五作。後年、教え子たちが編纂した『長谷川五作先生著作選集』によると、1923(大正12)年にエノキタケの試験栽培を始めた長谷川は、1927(昭和2)年、エノキタケを学校教材に用いた。さらに『主婦の友』の瓶栽培法の記事も参考にし、エノキタケの瓶栽培法を地元に広めていったという。『著作選集』に寄稿した屋代中学校卒業生は「長野県のおしもおされもせぬ特産品となったえのき茸」「(県外では)福井県、石川県で最近生産を開始したようであるが、生産量は問題になる様な数字ではなく」と、師が築いた業績を称える。
 
 また、松代町(現在の長野市)の山寺信は、瓶栽培法を発展させ、瓶のまわりに紙を巻いて細長く白いエノキをつくる方法を開発したとされる。長谷川や山寺たち有志が、長野県をエノキタケ一大生産地に発展させる礎を築いた。現在、全国のエノキタケ生産量の約半分は長野県産だ。
 
逸話に富むきのこにも技術革新――ヒラタケ
 ヒラタケは、春から秋にかけて広葉樹の枯れ木に生える。このきのこも日本人に古くから好まれてきた。
 
 12世紀後半成立の歌謡集『梁塵秘抄』には「聖の好むもの」として「松茸」の次に「平茸」が挙げられている。
 
 ヒラタケには言い伝えがいくつかある。『今昔物語集』の説話はそのひとつ。武将の藤原陳忠が信濃守の任を終えて京へ帰る途中、谷に落ちてしまう。谷底からは「かごに縄をつけて降ろせ」との陳忠の声が。従者が従ってからかごを引き上げると、かごにはヒラタケが積まれている。二度目には陳忠がかごに乗っていたが、その手はヒラタケをいっぱい掴んでいたという。国司の強欲ぶりを示す話だが、ヒラタケの価値の高さもうかがえる。
 
 13世紀前半の説話集『宇治拾遺物語』には「丹波国篠村平茸生うる事」という話がある。丹波国の篠村(現在の京都府亀岡市)には長年、ヒラタケが途方もないほど生えていた。ある日、里の長老が夢を見ると、髪の伸びた法師に「よそへ行くことになった」と告げられる。すると翌年の秋からヒラタケが少しも見当たらなくなってしまったという。当地の優占種が、ヒラタケの生える広葉樹の林から、マツ林に変わったことを暗示するものとする指摘もある。
 
 ヒラタケの菌床栽培法もまた森本彦三郎が開発した。著書『食用茸ナメ茸・橅シメジ・ヒラ茸・椎茸・フランス茸人工培養法』(森本養菌園刊)で「ひら茸の鋸屑培養はナメ茸と同時に(昭和三年十月)に私が発明いたしたもので御座います」と述べている。
 
 同年、森本が栽培法を開発した種は、他にナメコ、ヌメリスギタケ、マイタケなど。1928年(昭和3)年は、技術革新の集中年となった。
 
エネルギー価は高くないが、価値は高い
 日本人が長らく得てきた穀物や魚類などの他の食材に比べて、きのこのエネルギー価は高くない。それでも人びとがきのこを食べてきたのは、香りや旨味、そして歯ざわりなどに、きのこ特有の価値を見出してきたからだろう。
 
 きのこが日常的な食材となったのは昭和期、それも昭和40年代になってからという。イノベーターたちが人工栽培法を確立しなければ、ここまでの食用きのこの発展もなかったはずだ。
 
 発展の道は今も続いている。後篇では、現代のきのこ栽培において、力が注がれている研究とその成果を追うことにしたい。
 
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